写真2(鎌倉~安土・桃山) Flashcards
名称、所在地
東大寺南大門
所在地:奈良県奈良市
国宝。
平安時代の応和2年(962年)8月に台風で倒壊後、鎌倉時代の正治元年(1199年)に重源により復興された。宋から伝わった大仏様(だいぶつよう、天竺様ともいう)を採用している。
大仏様の特色は、貫と呼ばれる、柱を貫通する水平材を多用して構造を堅固にしていること、天井を張らずに構造材をそのまま見せて装飾としていることなどが挙げられる。
名称、所在地
円覚寺舎利殿
所在地:神奈川県鎌倉市
国宝。
神奈川県唯一の国宝建造物で、境内の奥に位置する塔頭・正続院の中にある。正続院は開山無学祖元を祀る、重要な塔頭。舎利殿は入母屋造、杮(こけら)葺き。一見2階建てに見えるが、一重裳階付きである。
名称、所在地
蓮華王院本堂(通称:三十三間堂)
所在地:京都市東山区
国宝。元は後白河上皇が自身の離宮内に創建した仏堂で、本尊は千手観音。上皇が平清盛に建立の資材協力を命じて1165年1月30日に完成。創建当時は五重塔なども建つ本格的な寺院であったが、建長元年(1249年)の火災で焼失した。文永3年(1266年)に本堂のみが再建。当時は朱塗りの外装で、内装も極彩色で飾られていたという。建築様式は和様に属する。南北にのびるお堂内陣の柱間が33もあるのは、観音菩薩の変化身三十三身にもとづく数を表している。
石山寺多宝塔
所在地:滋賀県大津市
国宝。日本三塔の一つ?
建久5年(1194)建立で、年代の明らかなものとしては日本最古の多宝塔である。内部には快慶作の大日如来像を安置する。
石山寺は、滋賀県大津市石山寺1丁目にある東寺真言宗の寺。本尊は如意輪観音、開基(創立者)は良弁。当寺は京都の清水寺や奈良県の長谷寺と並ぶ、日本でも有数の観音霊場であり、西国三十三所観音霊場第13番札所となっている。また当寺は『蜻蛉日記』『更級日記』『枕草子』などの文学作品にも登場し、『源氏物語』の作者紫式部は石山寺参篭の折に物語の着想を得たとする伝承がある。「近江八景」の1つ「石山秋月」でも知られる。
名称、所在地
観心寺金堂
所在地:大阪府河内長野市
国宝。南北朝時代の建立。建築様式に、伝統的な和様と禅宗様の要素が混在している、いわゆる「折衷様」建築の代表作とされる。
観心寺は、伝承では、大宝元年(701年)、役小角(役行者)が開創し、当初、雲心寺と称したとされる。その後、大同3年(808年)、空海がこの地を訪れ、北斗七星を勧請したという。これにちなむ7つの「星塚」が現在も境内に残る(なお、北斗七星を祭る寺は日本では観心寺が唯一)。
弘仁6年(815年)、空海は再度この地を訪れ、自ら如意輪観音像を刻んで安置し、「観心寺」の寺号を与えたという。「空海が自ら刻んで」云々の話は伝承の域を出ないが、現在金堂本尊として安置される如意輪観音像は、様式的に9世紀の作品とされている。また、観心寺には奈良時代にさかのぼる金銅仏4体が伝来することから、奈良時代草創説もあながち否定はできない。
名称、所在地、作者
東大寺南大門金剛力士像
所在地:奈良県奈良市
作者:運慶、快慶が指揮。
国宝。
高さ8.4mの巨大な木像。1203年に69日間で造られた。門の向かって右に吽形(うんぎょう、口を閉じた像)、左に阿形(あぎょう、口を開いた像)を安置。一般的な配置とは左右逆である。1988~1993年に造像以来初の解体修理を実施し、像内から多数の納入品や墨書が発見された。それによると阿形像は運慶と快慶が小仏師13人を率いて造り、吽形像は定覚および湛慶が小仏師12人と共に造った。運慶が製作現場全体の総指揮に当たっていたとみられる。
名称、所在地、作者
興福寺無著像・世親像(写真右が無著、写真左が世親)
所在地:奈良県奈良市
作者:運慶
国宝。
建暦2年(1212年)頃、運慶工房作。像高は無著194.7cm、世親191.6cm。北円堂内、本尊弥勒仏の後方左右に立つ2躯の僧形像。世親像の担当仏師名は「運賀」または「運勝」と読め、無著像の担当仏師名は、「運助」と読める可能性あり。運賀、運助は、運慶の五男・六男とされている。
名称、作者、所在地
東大寺僧形八幡神像
作者:快慶
所在地:奈良県奈良市
国宝。東大寺の鎮守である手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)の神体であったもので、明治の神仏分離に伴い東大寺に移された。製作当初の彩色が鮮やかに残る、快慶の代表作である。毎年10月5日のみ公開される。
名称、作者、所在地
蓮華王院千手観音像
作者:湛慶
所在地:京都市東山区
国宝。寄木造、漆箔、玉眼。
十一面四十二臂の千手観音像。像本体の高さは334.8cm、台座や光背を含む全体の高さは7mを超える。建長3年(1251年)に造り始め、同6年(1254年)に完成。湛慶の名の後に「生年八十二」とあり、湛慶がこの時82歳であったこと、生年が逆算して承安3年(1173年)であったことがわかる。保存状態が良く、台座、光背、天蓋も当初のものが残っている。
名称、作者、所在地
興福寺天灯鬼像(右)
作者:不明(康弁またはその周辺の作)
興福寺竜灯鬼像(左)
作者:康弁
所在地:奈良県奈良市
いずれも国宝、鎌倉時代。
もと西金堂に安置されていた一対の鬼形像。ヒノキ材の寄木造で玉眼(眼の部分に水晶を嵌入する技法)を用いる。天燈鬼像は開口、龍燈鬼は閉口で阿吽の一対をなす。
名称、作者、所在地
六波羅蜜寺空也上人像
作者:康勝(運慶の四男)。
所在地:京都市東山区
重要文化財。わらじ履きで歩く空也の姿を表す。疫病が蔓延していた京の街中を、鉦(かね)を鳴らし、念仏を唱えながら悪疫退散を祈りつつ歩くさまを迫真の描写力で表現。首から鉦を下げ、右手には鉦を叩くための撞木(しゅもく)、左手には鹿の角のついた杖を持つ。口から吐き出される6体の阿弥陀仏は「南無阿弥陀仏」の6字を象徴。
名称、所在地
北野天神縁起絵巻
所在地:京都府京都市上京区(北野天満宮)
国宝。
(写真表)『北野天神縁起』(承久本)巻六より。宮中清涼殿に雷を落とす雷神と逃げまどう公家たち。
(写真裏)巻四より。大宰府の配所で涙ぐむ道真。
承久本では巻一~巻五には道真の生涯と藤原時平との対立、大宰府への左遷と憤死を描き、巻六で都における天変地異、巻七~巻八では日蔵六道巡りの説話が六道絵風に描かれ、絵巻はここで終わっている。
名称
法然上人絵伝
国宝。法然上人の生涯の行状を描いた伝記絵。知恩院に伝わる国宝で、徳治2年(1307)叡山功徳院の舜昌(しゅんじょう)が後伏見上皇の勅命を受けて製作に着手し、十余年の歳月をかけて完成した。
名称、所在地
一遍上人絵伝
所在地:神奈川・清浄光寺蔵
国宝。
全体的に人物を小さく扱い、背景の自然描写に大きな関心が注がれ、四季の風景を美しく描いている。写真は、備前福岡の市で説法するところ。
名称、作成指示者
蒙古襲来絵巻(蒙古襲来絵詞)
作成指示者:竹崎季長
国宝。筆者不明の全2巻の絵巻物。
鎌倉時代後期の作で、肥後国の御家人竹崎季長が元寇における自分の戦いを描かせたものとされている。写真は、文永の役において矢が飛び交い「てつはう」が炸裂する中をモンゴル帝国連合軍へ斬り込んでいく竹崎季長と応戦・逃亡する蒙古兵を描く。現在は宮内庁の所蔵となっており、東京都千代田区皇居東御苑内の三の丸尚蔵館に保管されている。
名称、作者
春日権現験記
作者:高階隆兼(宮廷絵所の長)
藤原氏の氏神である春日神(春日権現)の霊験を描いた鎌倉時代の絵巻物。絹本著色、巻子装、全20巻(他に目録1巻)、三の丸尚蔵館所蔵。1309年(延慶2年)に時の左大臣・西園寺公衡の発案で、宮廷絵所の長・高階隆兼によって描かれ、春日大社に奉納された。
名称、所在地
石山寺縁起絵巻
所在地:滋賀県大津市石山寺
石山寺
石山寺の創建と、本尊の観世音菩薩の霊験あらたかな功徳の数々を描き表した寺社縁起絵巻。全7巻、計33段。段数の33という数字は、法華経に観音菩薩はあまねく衆生を救うため33の姿に変身する、と説かれていることに由来する。重要文化財。1巻から3巻は、正中年間頃の鎌倉時代末に、『春日権現験記絵』の作者・高階隆兼率いる高階派の工房で描かれたと見られる。しかし、紆余曲折を経て全7巻が完成したのは、500年近くたった1805年頃である。石山寺の歴史や信仰だけでなく、当時の貴族や庶民の生活を窺える点でも貴重な史料であり、教科書などの図版としてもしばしば用いられる。
名称
男衾三郎絵巻
鎌倉中期の絵巻物。現存一巻。作者未詳。武蔵国の吉見二郎・男衾三郎という武士の兄弟をめぐる物語を絵巻にしたもの。
名称、作者
伝源頼朝像
作者:藤原隆信と伝えられている
国宝。
京都神護寺が所蔵する三幅の肖像画「神護寺三像(じんごじさんぞう)」の一つ。「絹本著色伝源頼朝像、絹本著色伝平重盛像、絹本著色伝藤原光能像」の名称で国宝に指定されている。人物はほぼ等身大に表される。
名称、作者
伝平重盛像
作者:藤原隆信と伝えられている
国宝。
京都神護寺が所蔵する三幅の肖像画「神護寺三像(じんごじさんぞう)」の一つ。「絹本著色伝源頼朝像、絹本著色伝平重盛像、絹本著色伝藤原光能像」の名称で国宝に指定されている。人物はほぼ等身大に表される。
名称、作者
後鳥羽上皇像
作者:藤原信実と伝えられている
所在地:水無瀬神宮蔵
国宝。鎌倉時代の似絵(にせえ、肖像画)の代表作。承久の乱に敗れた後鳥羽上皇は出家して隠岐に配流される前に、絵師・藤原信実に命じて自身の出家前の肖像画を描かせたことが『吾妻鏡』に記されており、その絵にあたるものという。
名称、所在地
鹿苑寺金閣
所在地:京都市北区
世界文化遺産「古都京都の文化財」の構成資産。建物の内外に金箔を貼った3層の楼閣建築である舎利殿は金閣、舎利殿を含めた寺院全体は金閣寺として知られる。1950年に焼失、1955年に再建。
足利義満の北山山荘を死後に寺とした。木造3階建ての楼閣建築。初層と二層の間には屋根の出を作らないため、形式的には「二重三階」。初層は金箔を張らず素木仕上げとし、二層と三層の外面(高欄を含む)は全面金箔張り。